時空
モザンビーク島の日曜日の朝。
モザンビーク島に来てから感じるようになった感覚。
”時が止まってる”
そう、何も動きが無いんです。誰もいないし、何も聞こえない。
いつもは賑やかな子供達の声やおばちゃんたちの豪快な笑い声が聞こえるのですが、日曜日の午前中はいつもこんな感じ。
何も感じない。
もともと島なのでとても穏やかでのんびりはしているのですが、この感じは生まれて初めてでした。
何というか、時空が止まっているような感覚(経験したことないですが)
生まれて初めてだった感覚を今、毎週のように感じています。
こんな時は自分だけの世界に思いを馳せて、思い切りこの時間を楽しむのが一番。
大切な人達のことを想ったり、まだ見ぬ未来の自分を想ったり。
いつも心穏やかに、大切にこの時間を感じていたい。
海
海なし県の埼玉で育った私。
でも、大人になってからはずっと海の側に住んでます。
グアム、マレーシアのコタキナバル、横浜のみなとみらい。
そしてモザンビーク島に住み始めてもうすぐ二年。
いつも海が側にありました。
特別海が大好きでもマリンスポーツが好きでもなかったけれど、ここまで海の側にいると海が好きになってくる。
海って、自然って、本当に色んな表情を見せてくれる。
ずっと眺めていても飽きない。(海に入るよりも眺めるのが専門)
まさかアフリカに来てまで海の側で暮らすなんて思ってもいませんでした。
そして、いままで見てきたどの海よりもアフリカの海が好きです。
エメラルドグリーンとマリンブルーのコントラストが綺麗な海の青とアフリカならではの強い日差しに冴えわたる真っ青なアフリカの空の青。私が想像していたアフリカとはあまりにかけ離れていて、そして美しい。
その海にお金持ちが乗ってるヨットやボートではなく、風だけで舵をとるダウ船がここの景色を一層味わいのあるものにしてくれます。
そしてアフリカの子供達のはしゃいでいる風景。
この組み合わせが私はとても好き。
ここには私たちが知っているアフリカとはまた違うアフリカの景色があります。
みんなにも見てほしい、感じてほしい、この世界。
アフリカ、そしてモザンビークはまだまだ発展途上の国で多くの問題を抱えているけれど、ここの島に流れてるこの空気はとても平和です。
ウニ
ブログを始めて3週目。
一週間に一記事を目標に書きたいと思っているのだけど、なかなか難しいのです。
実は3記事目にはモザンビークとモザンビーク島について書きたいと思っていたのですが、思わぬ壁に。
記事を書こうと思ったとき、地図を載せたり写真を載せたりしたい。そしてふとした疑問が。
”著作権”大丈夫なの?
”肖像権”とかってどうなの?
そして、情報を発信するには間違った情報を記事にしない為に色々を下調べが必要。私は思ってはいけないことを思ってしまいました。
手間だな。。。
そして記事を書く手が止まってしまいました。(情けない)
世のブロガーさんたちにそんなことで躓いてどうするんだと怒られそう。
でも、ブログを三日坊主で終わらすわけにはいかない。3記事目もまだ書き終わってすらいない。それだけは絶対いやだ。
そこで私は決めました。
あまり気を張らずに日々の出来事、思ったことを綴っていこうと。はい。日記を書きます。
少しでもいいから、進もう。進めばその先の違う景色が見えてくるかもしれないから。
ということで今日のasukapunya日記。
今日はウニの炊き込みご飯を作りました。
そう、モザンビークにもウニいます。そしてモザンビーク人もウニ食べるんです。
値段は激安、1カップ(250cc)日本円で約30円。
もう、これでもかっていうくらいウニを入れて炊き込みました。
本当はたっぷり贅沢うに丼をしたかったんでんすが、一昨日生うにをお醤油で食べたらお腹を壊してしまいました。そんなことがあって残念ながらうに丼は断念しましたが、大量に買ったウニを腐らしてはウニ好きの日本人の方々に怒られてしまいます。
ウニの炊き込みご飯をして、近くに住んでるボランティアの隊員におすそ分けしました。
帰国までに一生分のウニを食べようと思ってたけれどもう帰国までウニは食べなくてもよさそう。
さて、明日はどんな料理にしてウニを食べようかな。←まだウニ残ってる。
私のお話
今日は"わたし"についてお話したいと思います。
どこに住んでいるの?
前回の記事でも書きましたが、私はいまアフリカ大陸南東部に位置するモザンビークという国に住んでいます。しかもモザンビーク島という小さな小さな島。
なぜそんなところに住んでいるの?
なぜそんなところに住んでるかというと私はいま、青年海外協力隊として2年間のボランティア活動をしています。
ご存知の方もそうでない方もいると思いますが、青年海外協力隊とは日本政府がODA(政府開発援助)の一環として外務省所管のJICA(独立行政法人国際協力機構)が実施している海外ボランティア派遣制度です。
何をしているの?
コースはホテル・レストランコース。テーブルマナーやホテルサービスの基礎、お酒の知識など幅広く教えています。といっても小学校を卒業したばかりの子供たち(12歳~15歳くらい)が通う学校なので本当に基礎の基礎を教えています。また生徒だけなく現地で働く学校の先生たちの知識、技術向上を行っています。
なんでボランティアをしているの?
単刀直入にいうといくつかある夢の一つでした。日本から離れた遠い異国の地で困っている人や必要な助けががあるならその役に立ちたい。そう思わせてくれた高校の時の先生がいました。この夢が叶うまでに長い年月がかかりましたが思い続けていれば叶う日が来るものです。もちろん努力は必要ですが。
とはいえ、高校を卒業してから私は国際協力の道に進むべくその勉強をしたとか、ボランティア活動をはじめたとかではありません。
ここからはちょっと話が長くなりますが青年海外協力隊になるまでのわたしのお話
高校を卒業してからはホテルの道に進むべく、ホテルの専門学校に通い、一年間のアメリカ留学、そしてグアムのホテルでインターンシップをしたりマレーシアのコタキナバルというところで働いたりもしました。今思うと国際協力がしたかったのではなく、あの頃は海外に興味があったのかもしれないですね。
日本のホテルでも5年ほど働きました。日本で5年も働くとなぜか海外が遠く感じてきました。それなりに今の仕事も楽しいしやりがいがある。ただ、この先どうしたいか、なんだかわからなくなっていました。このまま同じ仕事をしてていいのだろうか、私の未来はこのまま代わり映えの無いままなのか。そんなことを考えて転職をしました。このとき私は29歳。もうこの時は国際協力なんて私の住んでる世界とは違う世界のようでボランティアをやろうとは考えもしませんでした。
ですが、この転職をした会社で人生で初めて大きな挫折をしました。遅めの挫折でしょうか。避ける事のできない会社の上司との仕事がつらくて辛くて仕方なかった。辛いことが毎日毎日続くと、なんで私、こんなに辛い思いして生きているんだろう。何をやっているんだろうと自問自答の日々。そして上司どころか会社の人たちと顔を合わせるのも苦痛になっていました。
そんなある日、もう誰とも会いたくない、携帯の着信がなっても出たくないと思うほどの精神状態でいた私に大親友が泣いて言ってくれたんです。
「仕事なら私が他に見つけるから、お願だからもう会社に行くの止めて」と。
今まで私がこんなに辛そうなのを見たことがないと。わたしは大泣きしました。レストランの中で二人で。そして次の日会社を行くの止めました。社会人としては失格ですね。会社の沢山の人に迷惑をかけたことと思います。そして両親にも。
でも、私の心に乗っかっていた重い重い大きな石がが取れて何かから解放されました。何というか、社会人としてしてはいけないことをしてしまったけれど、人としては間違ったことはしていないと。私の心がそう言っていました。去年流行ったドラマのタイトルを思い出します。"逃げるは恥だが役に立つ"
これハンガリーのことわざだそうです。
"恥ずかしい逃げ方だったとしても生き抜くことが大切"
実は、わたしには二十歳のころに作ったやりたいことリストとそしてそのプランがありました。そのプランだとある程度社会人経験をした後、28歳くらいに海外でボランティアをして30歳くらいに結婚。そして時間を見つけては世界を巡る。できればいつか自分でB&B*1もやりたい。そんなざっくりとしたプラン。
会社を辞めて家でぼーっとしてたある日。そんなプランを思い出したんです。そうだボランティアしよう。ふとそう思ったんです。私はインターネットでボランティアの募集を探して長野県小谷村の真木共働学舎という所で稲刈りや、野菜の収穫のお手伝いをしました。一時間余り山を登らなくては行けない場所にあるその学舎の周りは学舎以外には何もありません。スーパーもコンビニも何も。あるのはここに住んでいる人たちと動物と雄大な自然。そんなところで2週間ほどボランティアをしました。
ここに住む人たちはいろいろなハンディーを持った人たちが共に働き生活する場所。ほぼ自給自足で生活をしていて、田んぼは今でも手で植えて、手で刈る。ハンディーを持った人たちなので一つ一つの作業は本当にに時間がかかり、朝から作業を始めてもあっという間に夕方に。外灯はないので日が落ちれば家に戻り夕食。夕食作りもお皿洗いもみんなで交代制。いくら時間がかかっても誰も文句は言いません。ある日、ここに住む住人が言いました。僕は仕事も遅いし足手まといだと。もう40歳も越しているだろうおじさんです。でもそこの学舎の長は言っていました。あなたがここいることに意味がある。居なくていい人なんていないと。なんだここは、映画の世界かと思いました。実際ここを舞台にした映画があるのですが。できる人が出来ない人を助ける。それは当たり前の事。不便な場所にあるからこそそれを良しとして生活を楽しむ。そんな真木共働学舎で過ごした2週間はわずかな時間でしたがいつか夢見た、高校の時の先生が話してくれた青年海外協力隊の話を思い出しました。
居なくていい人なんていない。できる人が出来ない人を手助けする。小さなことだってなんでもいいんだ。それを強く感じる事の出来た長野でのボランティア。長野から戻ってきた私は青年海外協力隊のサイトを開き、私にできる事は無いかと募集要項を探しました。
そこで見つけたボランティアが今の私がいるモザンビーク島でホテルの先生としてのボランティアです。わたしは今まで国際協力でできる事って医療関係や環境保護、一村一品などだと思ってました。でも実際探してみると自分が今まで経験してきたホテルでの仕事、知識をアフリカの地で誰かのために役立てることが出来ることが分かり、この募集を見つけたときはとても胸がドキドキして私にもできる事があるぞって興奮しました。
両親や親せき、友達、いろんな人が心配してくれたりアフリカに行くことを反対したりしました。アフリカって遠い異国の地。エボラも流行ってたし、マラリアだって怖い。よくわからない感染症にかかったりけがをしたときにきちんとした病院がなければ治療が出来ず命取りになるかもしれない。そんな心配をみんなしてくれました。わたしももちろんその不安が無かったわけではありません。でも、やっぱりあの時に感じた胸の高鳴り、やっぱり行くべきだとそう思いました。
私はみんなが思うような国際協力の世界で働く人たちのイメージとは違うかもしれません。誰かの役に立っているのか、今もどれだけのことが出来たのだろうかと何かを残せているのだろうかと日々考えています。残り3か月もないここでの生活。誰かの役に立つ前に、私が沢山の人に助けられました。
ブログって誰に何をどう思われるか怖いけど。今更かもしれないけれど、でもこれももしかしたら誰かの役に立つかもしれない。そう思って今日は私のお話をしました。
一つ言えることは、これまでの苦労も喜びも全部必要なことだったということ。そしてこれから先もきっとそうなんだと思います。
ブログもわたしにとって必要なことの一つになると信じて。
*1:Bed and Break Fastの略で朝食のみ提供する宿
一歩
はじめまして。あすかです。
この2年、ずっとずっとブログを始めたいと思っていました。でも始められませんでした。どう思われるのか怖いとか、パソコンが苦手とか、ただの面倒くさがりとかそんなことです。
それなのになぜ今更はじめるの?
今私は、アフリカ大陸南東部に位置するモザンビーク共和国(通称モザンビーク)に住んでいます。
それも、モザンビーク島という小さな小さな島です。
小一時間もあれば島一周できてしまうほどの小ささです。この島はモザンビーク唯一の世界遺産であり、モザンビークの歴史が詰まった島です。
現在ここに住み始めて1年9ヶ月が経ちました。あと3ヶ月でここを去ります。
もしかしたら、私のブログを通してモザンビークを知るきっかけになってくれるかもしれない。もともとモザンビークに興味があった人のちょっとした情報のひとかけらとして役に立つかもしれない。
優柔不断で人前で話すのが苦手、自分の意見を口にするのが苦手、でも自分の意志でこの世界を生きたいと思うそんな私。
そんな私の日々の葛藤や想いをつづって、どこかで誰かが今日も頑張ろうと思ってくれたらいいなという思いでこのブログをはじめます。
そして自分自身のためでもあるかもしれません。
一歩
踏み出しました。大きな一歩?小さな一歩?
踏み出すのに遅かった?
一歩は一歩。踏み出す大きさも速さも人と比べず行こう。一歩を踏み出す勇気。
頑張れ自分。頑張れ、一歩踏み出して前へ進みたい人。
たかがブログで大げさだなんて言わないでくださいね。次の記事できちんと自己紹介します。