私のお話

今日は"わたし"についてお話したいと思います。

 

どこに住んでいるの?

 

前回の記事でも書きましたが、私はいまアフリカ大陸南東部に位置するモザンビークという国に住んでいます。しかもモザンビークという小さな小さな島。

 

なぜそんなところに住んでいるの?

 

 なぜそんなところに住んでるかというと私はいま、青年海外協力隊として2年間のボランティア活動をしています。

ご存知の方もそうでない方もいると思いますが、青年海外協力隊とは日本政府がODA(政府開発援助)の一環として外務省所管のJICA(独立行政法人国際協力機構)が実施している海外ボランティア派遣制度です。

 

何をしているの?

 

モザンビーク島のとある職業訓練校で学校の先生をしています。

コースはホテル・レストランコース。テーブルマナーやホテルサービスの基礎、お酒の知識など幅広く教えています。といっても小学校を卒業したばかりの子供たち(12歳~15歳くらい)が通う学校なので本当に基礎の基礎を教えています。また生徒だけなく現地で働く学校の先生たちの知識、技術向上を行っています。

 

  なんでボランティアをしているの?

 

単刀直入にいうといくつかある夢の一つでした。日本から離れた遠い異国の地で困っている人や必要な助けががあるならその役に立ちたい。そう思わせてくれた高校の時の先生がいました。この夢が叶うまでに長い年月がかかりましたが思い続けていれば叶う日が来るものです。もちろん努力は必要ですが。

 とはいえ、高校を卒業してから私は国際協力の道に進むべくその勉強をしたとか、ボランティア活動をはじめたとかではありません。

 

 

 

ここからはちょっと話が長くなりますが青年海外協力隊になるまでのわたしのお話

 

高校を卒業してからはホテルの道に進むべく、ホテルの専門学校に通い、一年間のアメリカ留学、そしてグアムのホテルでインターンシップをしたりマレーシアのコタキナバルというところで働いたりもしました。今思うと国際協力がしたかったのではなく、あの頃は海外に興味があったのかもしれないですね。

 

日本のホテルでも5年ほど働きました。日本で5年も働くとなぜか海外が遠く感じてきました。それなりに今の仕事も楽しいしやりがいがある。ただ、この先どうしたいか、なんだかわからなくなっていました。このまま同じ仕事をしてていいのだろうか、私の未来はこのまま代わり映えの無いままなのか。そんなことを考えて転職をしました。このとき私は29歳。もうこの時は国際協力なんて私の住んでる世界とは違う世界のようでボランティアをやろうとは考えもしませんでした。

 

ですが、この転職をした会社で人生で初めて大きな挫折をしました。遅めの挫折でしょうか。避ける事のできない会社の上司との仕事がつらくて辛くて仕方なかった。辛いことが毎日毎日続くと、なんで私、こんなに辛い思いして生きているんだろう。何をやっているんだろうと自問自答の日々。そして上司どころか会社の人たちと顔を合わせるのも苦痛になっていました。

 

そんなある日、もう誰とも会いたくない、携帯の着信がなっても出たくないと思うほどの精神状態でいた私に大親友が泣いて言ってくれたんです。

 

「仕事なら私が他に見つけるから、お願だからもう会社に行くの止めて」と。

 

今まで私がこんなに辛そうなのを見たことがないと。わたしは大泣きしました。レストランの中で二人で。そして次の日会社を行くの止めました。社会人としては失格ですね。会社の沢山の人に迷惑をかけたことと思います。そして両親にも。

 

でも、私の心に乗っかっていた重い重い大きな石がが取れて何かから解放されました。何というか、社会人としてしてはいけないことをしてしまったけれど、人としては間違ったことはしていないと。私の心がそう言っていました。去年流行ったドラマのタイトルを思い出します。"逃げるは恥だが役に立つ"

これハンガリーのことわざだそうです。

 

 

"恥ずかしい逃げ方だったとしても生き抜くことが大切"

 

 

実は、わたしには二十歳のころに作ったやりたいことリストとそしてそのプランがありました。そのプランだとある程度社会人経験をした後、28歳くらいに海外でボランティアをして30歳くらいに結婚。そして時間を見つけては世界を巡る。できればいつか自分でB&B*1もやりたい。そんなざっくりとしたプラン。

 

会社を辞めて家でぼーっとしてたある日。そんなプランを思い出したんです。そうだボランティアしよう。ふとそう思ったんです。私はインターネットでボランティアの募集を探して長野県小谷村の真木共働学舎という所で稲刈りや、野菜の収穫のお手伝いをしました。一時間余り山を登らなくては行けない場所にあるその学舎の周りは学舎以外には何もありません。スーパーもコンビニも何も。あるのはここに住んでいる人たちと動物と雄大な自然。そんなところで2週間ほどボランティアをしました。

 

ここに住む人たちはいろいろなハンディーを持った人たちが共に働き生活する場所。ほぼ自給自足で生活をしていて、田んぼは今でも手で植えて、手で刈る。ハンディーを持った人たちなので一つ一つの作業は本当にに時間がかかり、朝から作業を始めてもあっという間に夕方に。外灯はないので日が落ちれば家に戻り夕食。夕食作りもお皿洗いもみんなで交代制。いくら時間がかかっても誰も文句は言いません。ある日、ここに住む住人が言いました。僕は仕事も遅いし足手まといだと。もう40歳も越しているだろうおじさんです。でもそこの学舎の長は言っていました。あなたがここいることに意味がある。居なくていい人なんていないと。なんだここは、映画の世界かと思いました。実際ここを舞台にした映画があるのですが。できる人が出来ない人を助ける。それは当たり前の事。不便な場所にあるからこそそれを良しとして生活を楽しむ。そんな真木共働学舎で過ごした2週間はわずかな時間でしたがいつか夢見た、高校の時の先生が話してくれた青年海外協力隊の話を思い出しました。

 

居なくていい人なんていない。できる人が出来ない人を手助けする。小さなことだってなんでもいいんだ。それを強く感じる事の出来た長野でのボランティア。長野から戻ってきた私は青年海外協力隊のサイトを開き、私にできる事は無いかと募集要項を探しました。

そこで見つけたボランティアが今の私がいるモザンビーク島でホテルの先生としてのボランティアです。わたしは今まで国際協力でできる事って医療関係や環境保護一村一品などだと思ってました。でも実際探してみると自分が今まで経験してきたホテルでの仕事、知識をアフリカの地で誰かのために役立てることが出来ることが分かり、この募集を見つけたときはとても胸がドキドキして私にもできる事があるぞって興奮しました。 

両親や親せき、友達、いろんな人が心配してくれたりアフリカに行くことを反対したりしました。アフリカって遠い異国の地。エボラも流行ってたし、マラリアだって怖い。よくわからない感染症にかかったりけがをしたときにきちんとした病院がなければ治療が出来ず命取りになるかもしれない。そんな心配をみんなしてくれました。わたしももちろんその不安が無かったわけではありません。でも、やっぱりあの時に感じた胸の高鳴り、やっぱり行くべきだとそう思いました。

 

私はみんなが思うような国際協力の世界で働く人たちのイメージとは違うかもしれません。誰かの役に立っているのか、今もどれだけのことが出来たのだろうかと何かを残せているのだろうかと日々考えています。残り3か月もないここでの生活。誰かの役に立つ前に、私が沢山の人に助けられました。

 

ブログって誰に何をどう思われるか怖いけど。今更かもしれないけれど、でもこれももしかしたら誰かの役に立つかもしれない。そう思って今日は私のお話をしました。

 

一つ言えることは、これまでの苦労も喜びも全部必要なことだったということ。そしてこれから先もきっとそうなんだと思います。

ブログもわたしにとって必要なことの一つになると信じて。

 

 

f:id:asukapunya:20171101041649j:plain

私が学校で教えている生徒たち。素直で生意気。可愛い時もあれば憎たらしい時もある。

 

 

*1:Bed and Break Fastの略で朝食のみ提供する宿